師事録12・タウブマン

20080630072230
【タウブマン奏法】聞いたことがありますか?手首の脱力を提唱した奏法。手の重さや、手首の回転を利用して、負担を掛けずに弾くことを目的としています。イースタン・ミシガン大学で師事したガーツ氏は、そのタウブマン奏法の指導を取り入れていました。腱鞘炎などで手を壊してしまったピアニストやピアノの先生が大学生に混じって習いに来ていたんですね。それを知ったのは、彼についた後。初めは半信半疑であったタウブマン奏法も、次第に楽に弾けることに自覚が伴ってくれば「こりゃ便利」となる。熱心に一音一音打鍵を確かめつつ指導しようとするガーツ氏に、「もう良いから曲を弾かせてよ!」と、痺れを切らしたのは、私の方だけれど…。心の中では「ふ~ん、やるじゃん」位には納得していたので、このタウブマン奏法に素直に従っていた(^o^;)。この奏法伝授の他に、ガーツ氏が優れた指導者であった要因の一つは、彼が「誉め上手」であったこと。誉めて育てる。この指導姿勢は、叱られて育った東洋人には衝撃的なインパクトを与える。東洋人留学生達は、ガーツ氏の誉めにおだてられて→「ブタも木に登る状態」に。結果、嬉々としてピアノに向かうようになるんですよ。「君は大したもんだ。世界的なピアニストにはならないかも知れないが、そこそこのピアニストになるよ。君のピアノを楽しんでくれる人達の中で必要とされるのだからね。」…こう言われた日には→たまらない(*゜▽゜ノノ゛☆。はい、頑張りま~す(^O^)/。どの先生方も、誰一人として将来像など語らなかったのに、ガーツ氏は、夢を身近な、さも当たり前のことのように想わせる魔術を持っていた。もとい、コーチングに長けていたんですね。後から、彼が同じように全ての生徒に語りかけていたのを知って、しらけた気分も味わったりしましたが…σ(^-^;)。まっ、優れた指導者って公平なもんですよ。演奏活動もなさっているガーツ氏は、親身な笑みを浮かべ親切な態度を持ってして、誰をも贔屓などしなかった。それを「冷たい」と感じた東洋人学生もいたけれど、いつも忙しそうに落ち着かない彼を見ていると、余計なことに時間を割かれないように身を守る術なんだな~と感心していた。ガーツ氏には大学院の二年間お世話になった。楽々とピアノに向かえるようになると、音の響きに耳を傾ける余裕も生まれてくる。ミシガンに滞在した二年間に一度だけ、タウブマン奏法の提唱者、本家本元のタウブマン女史が来校して公開レッスンを開き、ガーツ氏の薦めで参加した。現れた女史は、写真で見るより、うんと高齢であられた。ご存命の内に、お会いできて良かった~。皆の前で、ショパンのスケルツォ第4番を弾いた。弾き終わった途端の第一声は、期待とは違うものだった。「何?この楽譜。ひどい解釈ね!!中国語が書いてあるけど、どこの?間違いだらけよっ(`へ´)!」レッスンの内容は、いかに譜面に書かれた音符やらスラーやらが間違っているかの指摘にとどまった。「ほら、ここも違う。あら、ここも変だわっ!」春秋社版を持って行った私も何だけど、公開レッスンの場での内容にしてはどうかと思う印象を受けた。「何よこの楽譜っ!」この言葉が頭の中で鳴り響いたまま、レッスン終了…φ(.. ) 。期待していたタウブマン奏法の話しはついぞ聞けなかった。茫然としたまま外に出れば、聴講に来ていたミシガン大学の教授陣からすれ違いざまに声を掛けられた。「いや~、君なかなか弾くじゃないか。良いスケルツォだったよ。頑張れよ!」:*:・( ̄∀ ̄)・:*:はい~、頑張りますっo(^▽^)o。再びブタは木に登った(^_^;)。誉めの指導。基本的指導姿勢の極意をミシガンで学んだのです。明日はミシガンから、南部ルイジアナへの旅立ちについての経緯をお話ししますね。
スポンサーサイト

水無月

20080629224046
【師事録】中休みです。今月は、いつもに増して何かとバタバタしていました。6月最後の週末もようやく終わり~(*´Д`)=з→ホッとします。いつもに比べ出張も多かったこと×多かったこと:*:*:三 (/ ^^)/!一日に開催された岐阜のステップのアドバイスに始まり→新潟県・新発田ステップ→千葉県・一宮小学校での学校クラスコンサート→滋賀県・大津コンペ審査。だからと言って、門下生の指導は、約束の回数をもちろんこなさなくてはならない。この時期は、コンクール参加者の後押しをレッスン以外にもしますね。補講なしには、なかなか勝たないという昨今の事情もあるので…。出張のない週末は、ぎゅうぎゅう状態でレッスンが詰まる。昨日は12時間、今日は11時間って具合に猛烈な感じ…(@_@)。こんな状態の下では、【シッカリのつもりがウッカリ】も発生してしまうんですね。生徒のコンペ日程を把握していたつもりが→「おはようございます。レッスンに頼らずコンペ受けに行って来ます(^~^)。」メールが入る。あれっ‥今日だっけ!? 忘れてた…(><;)。ごめんね。まっ、教えることは教えたからグッドラック(^_^;)!! …なんて失敗もありましたね…(苦笑)。よくも倒れず、体力&気力が続きましたよ…(-o-;)。このペースで、毎月仕事をこなされている先生方がいらっしゃるのだから…。頭が下がります。ぺこり三 (/ ^^)/。そろそろスイカが出回り始めています。一昔前とは違い、今はどんなスイカを買っても当たり外れがあまり無いですよね。スイカに比べ、コンペに関しては、当たり外れだらけ(Θ_Θ)。今月のピティナ地区予選の成果は、優秀賞8つと奨励賞が2つ。残念賞もちらほら~。美味いか不味いかは、鑑賞する側のお好み次第。大切に育てても、好みに合わなければ食べて頂けないってヤツですなぁ~。育てる側と審査する側と、両方の立場を持てば「それもこれも仕方なし」と、理解してます。6月は水無月と呼ぶ。梅雨の時期に「水の無い月」?「無」は「の」と訳すらしい。…となると→「水の月」という解釈になるらしいです。納得~(#^-^#)。

師事録11・転機

20080628074410
ガーツ氏との出会いは、まさに人生の転機でした。ガーツ氏に出会わなければ、今まだピアノを弾いていることはなかったかもしれない。ましてや、プロのピアニストになどなってはいなかったと言い切れる。そんな彼の第一印象は→「うさん臭いおじさん」だったのも失礼な話しだよね~。イースタン・ミシガン州立大学に、9月からの編入が決まった私は、ピアノの教授をメータ氏かガーツ氏のどちらかの門を叩かなくてはならなかった。他にも教授陣はいたけれど、この二人が看板教授であると聞いていた。たまたま連絡を初めに取ったガーツ氏のスタジオ(レッスン室のことをスタジオと呼ぶ)を訪ねたのがきっかけで、師事することになった次第。ユダヤ人のガーツ氏は華奢で細面。あごひげを生やした優しげな表情に、どこかおどおどした目は落ち着き無く動く。彼のスタジオに入るなり、スタインウェイとヤマハの二台を持っていたガーツ氏は、「どちらのピアノで弾きたいか」と、尋ねてきた。その頃、まだスタインウェイに慣れていなかったのでヤマハを選び、ベートーヴェンの【月光ソナタ】を弾いた。大学入試に使った曲。入試以来、6年も経つというのに、ここぞという場面で入試曲を弾くなんざ、その間に何をやっていたんだか?それ以上自信のあるレパートリーが無いってことか…。あ~っ、情けないm(_ _)m。それでも意気揚々と弾き終われば「腕が疲れないか?」と、聞かれた。はぁ~っ?まぁ、そりゃ…少しは(-з-)。「それでは長い時間弾けないですね。五時間弾いたって、十時間弾いたって、疲れない弾き方に変えないとね!」この人、何言ってるんだろう?そんだけ弾けば疲れて当然なのに?「それでは、ドレミファソの5音から始めましょう。」 はっ?ドレミファソ…?ガーツ氏は手を取り、丁寧にドレミの弾き方を教え始めた。彼が、脱力しつつ手首のスナップを利用した「タウブマン奏法」の提唱者であったことなど全く知らなかったので、「このうさん臭いおじさんは、今更何を言っているんだろう?」と、思っていた。しばらくは大人しく彼のレッスンに従っていた。ドレミファソ~、ドレミファソ~♪ってね。何を教えたいんだろう?つまらない…。ある日、とうとうしびれを切らした。「ドレミは分かったから、曲を弾かせてよ!」…で、どれくらいで「しびれを切らしたか気になる」ですって?一ヶ月位は続いたかなぁ…。「短気だなぁ~」ですって?いえいえ、充分我慢しましたよ。たとえ4回目のレッスンで「いい加減にしてよ」って叫んだとしても、4時間もドレミファソ~ですからね。そこいらの初心者よりもゆっくりなペースですよ!

師事録Ⅹ・ロッキー物語

20080627072212
ノートルダム大学に留学する直前に、外語学院で知り合った彼とちゃっかり婚約していた私は、のうのうと婚約者を日本に置き去りにしたまま留学生活を送っていたんです。その間に、婚約者と母とが、式に向けての全てをお膳立てしてくれていました。→果てしなく他力本願(^_^;)。4月の休みに帰国し、結婚式だけ挙げ、学期の途中だからと、さっさと独りで再びノートルダム大学に戻ったりして。→スゴい自己中心(^o^;)。「いったい、どうなっているの?」と、怪しまれると思いますが、相手の方も、その年の9月からミシガン大学に留学が決まっていたので、現地で6月の学期末を迎えてから合流することになっていました。それまでの別居。→それにしてもね…、スゴい勝手な嫁さん(笑)。ノートルダム大学には10ヶ月ほどしか在籍していなかったので、それでは留学どころか、中途半端な遊学にしかならない。ミシガンに引っ越したら、どこかに転校しなくては…。ノートルダム大学では、奨学金を出すから留まらないかと持ち掛けられていたが、その申し出は流石に断った。転校できる学校を探したものの、転校の話しは現地に伝がなく、なかなか進まなかった(^_^)v。結婚して変わった環境は、スポンサーの転換だった。それまで資金を出してくれていた親から、旦那に資金源が代わった。財布が小さくなるから、そうそう負担も掛けられまい…。→あらあら、少しは気を使っている(^_^)v!? 転校先が決まらないまま、ミシガン州に越した。学生生活から主婦もどきに変身したものの→つまらない(-з-)。毎日がぶらぶら~。留学生に対しての授業料は高いし…。でも、この中途なままでは駄目だっo(_ _*)o。渡米前には「ピアノを教える生活に満足できないから、留学でもしよっかな~。」程度の低い意識しか持っていなかったくせにね(^o^;)。一年前のそんな態度はすっかり棚に上げ、「せっかく英語もピアノも上向いてきたのに…、もっと学びたい!」エライ前向きに変貌(*^_^*)。アメリカ文化の「やればできる精神」に、すっかり感化されていたんですね。「ダメな奴にもチャンスはある」っていう信仰と解釈してますが…。越した先のアナーバー市の隣町、イプシランティ市にイースタン・ミシガン州立大学があり、ぶらぶら~がてらに覗きに行ったのが、恩師ガーツ先生に巡り会えたきっかけ。くすぶっていた私に、再び燃え上がるチャンスを与えてくれた恩師との出会い。ピアノ界のロッキー物語。ゴングが鳴り響いたワケです。「カーン☆彡」ってね!! あはは。

師事録Ⅸ・仕込み

20080626083214
イタリア系アメリカ人のラ・ラータ氏とは、留学先のカリフォルニア州サン・マテオ市にある私立ノートルダム大学で出会いました。留学してからの一人目の師匠!ロクに英語も出来ずに留学したものだから、当初の苦労は頭に五百円玉大のハゲができたほどでした(//▽//)。寮に入り、三人部屋に落ち着き、車の免許も取り、帰国するという駐在員から黄色いトヨタ・セリカも安く譲ってもらい、生活環境は全て整った。ESLという外国人留学生向けの英語をとりながら、とりあえず語学能力をさほど必要としない合唱だの指揮法だのを、ピアノのレッスンの他に受講していた。全ては順調~!留学に対しての甘い考えに、いきなりのカウンターパンチ攻撃は、ルームメイトの中国人イダから喰らった(((゜д゜;)))。「英語でレポート書けないようじゃね。日本に帰って勉強し直したらどう?」キツいっ!けれど、本当にその通り…ヾ( ´ー`)。中国から家族、友人、国の期待だのを背負って留学してきた中国人にとって、物価の格差からアメリカドルでの生活は楽ではない。そこへもってきて、バブルの絶頂期に向かい円が強くなり行く中、日本人留学生はわんさか押し寄せて、たいていの学生はこれといった目的意識もなく遊んでいた。私立ノートルダム大学はこじんまりとしてはいたものの、美しいキャンパスと設備の整った環境で、日本からプチセレブの子女が集まっていた。口悪く言えば、遊びに来ていた。当然イダを始め真面目に勉強しようと目的ある留学生の目には、チャラチャラとロクに勉強もせずに遊んでいる日本人留学生の姿はシャクに触ったに違いない。それほど親しくもなかったイダに「日本に帰れ」と言われたら→俄然、反発精神に燃える(`へ´)。その日から、日本語で話すことは一切止めたのはもちろんのこと、頭の中の思考も英語に切り変えた。タイプは見よう見まねでカチャカチャと打ち始めた。タイプでアルファベットが打てるようになるまで慣れてきたら、新聞を脇に置いて、それをタイプで写す練習に励んだ。そうこうするうちに、あまりのプレッシャーからか、円形ハゲができて→それはそれは落ち込んだφ(.. ) 。渡米して3ヶ月のこと。イダは町医者に予約を取って、黄色いセリカで一緒に行ってくれた。「あなたの英語じゃ通じないでしょうから。」…(-"-;)。それ以来、打ち解け始めた。「戦争で叔父を殺した日本人は嫌いだけど、ナオミは別」って、反日感情はむき出しのままにね(^o^;)。ルームメイトのイダとは真逆に、ピアノを見てくれたラ・ラータ氏は親日家で、初対面から親切に対応してくれた。「今まで弾いた曲を書いて来てね。」そう言われて、練習したタイプで、曲目を打ち始めてみれば、なんとも乏しいレパートリーだこと(ノ_・。)。このソナタは一楽章しか弾いていないし、ロマン派の大曲なんて片手もない…。近現代のレパートリーを挙げる以前に、作曲家の名さえロクに知らない有様。バロックに至っては二声に三声に平均律がちょこっと。そんなこと書くほどのことでもないし…。あ~っ、みっともない(Θ_Θ)。何も弾けないじゃないっ。ラ・ラータ氏自身に、これといって特別な指導法があった訳ではないけれど、彼は周りの人間をやる気にさせて動かすことには長けていた。あの教会でミサの後に弾いて来て。このお茶会で演奏者探しているんだ。誕生会の余興にピアノが必要なんだって。コンクールがあるけど、どう?次々と仕事を持って来る。学内でも、ブラウン・バッグ・コンサートと称し、昼休みにプチ演奏会をしばしば催す。週中の夜になると、公開レッスンを毎週のように開く。マラソン・コンサートと言って、各学生がそれぞれ一時間づつ弾いて、繋いでいく演奏会を企画する。留学する以前には、学内試験でチョロチョロとしか弾いてこなかった身には大変な負担。短期間で量をこなす。かくて、プロには不可欠な根性をイダから、そしてスピードとスタミナはラ・ラータ氏から、ノートルダム大学での一年間で仕込まれたのです。

師事録Ⅷ・甘い道のり

20080625080024
それまで寄ってたかっていた大人達が、蜘蛛の子を散らすように居なくなる。音大を出て途方に暮れているレスナーさんは多いんですよ。故郷に帰れば良いのに。まぁ、親の期待を考えればおいそれとは帰れないんだろうしね…。楽器店の方から「今時、音大を出たって仕事はないよ」と、聞いた時は嫌な気分を味わったものだけれど(・ω・)/。…あなた方は、その音大生をお客さんにしてるんじゃないの?何だ、その言い方は(#`ε´#)。むきっ!!…でも【蜘蛛の子】発言は、まぁ…的を射ているかな。個人レッスンという形態がそうさせるのかも知れない。卒業するまでは、ピアノの先生が、ソルフェージュの先生が、歌の先生が、手取り足取りで教える。お姫様状態(^O^)/。世間は「音大に通っているお嬢さん」をちやほやする。ところが、卒業した途端に、周りから忽然と誰も居なくなる。親はこれだけかけたのだから、きっと活躍してくれるだろうと期待する。少なくとも仕事に困るなんてことはないだろう。しかし実際はピアノ講師として、楽器店で教えても自活できるほどの収入はない。契約講師だから保証は少ない。それでは自宅を教室にすれば良いかって?この場合、事業主としての資質が問われる。ピアノ教室経営やピアノ教師としてのノウハウは、大学では教えてもらわない。上京してのアパート住まいなら、自宅でピアノ教室を開く訳にはいかない。こうして、箱入りで育ち世間知らずに育ったお嬢さんは、現実の厳しさに直面するという局面を迎えるのです。うん…(ρ_-)o。楽器店の人が冒頭に述べたような投げやりな意見をするのも、こういったケースを数多く見ているからに違いない。それを考えると、母親がピアノ教室を幾つか経営し、親戚が楽器店を生業としていた私は幸運と言える。卒業する前から、自宅で教えていた仕事に加え、親戚がビクター関係の楽器店であった伝で、ビクター音楽教室の講師も始めたんです。しかし、当時ピアノを教えることに目的意識の低かった私は、与えられた環境にもかかわらず不満を抱えていたんですね。ずっとピアノを教えていくことに疑問もあった。このままで良いのかな?これまで自分は敷かれたレールの上を走ってきたけれど、他にも自分に合う世界があるんじゃないだろうか…?【留学】現実から逃げ出すには格好の言い訳だった。苦手なドイツ語よりは、英語の方が楽だし。←赤面するほどの甘ちゃん(^o^;)。思い立ったらじっとはしていられない。アメリカ留学について調べてみれば、どうやら「トフル」という英語試験を受けなくてはならないようだ。電車の中吊り広告で見かけた【イフ外語学院】が、トフル受験対策クラスを開講していると見付けて、早速通い始めた。その話しを聞きつけた叔母が「知り合いがサンフランシスコに駐在しているから紹介するわ」と、お膳立てしてくれた。何のことはない。結局、周りの者に助けられて生きてきた私は、更なる助けを借りて、留学に漕ぎ着けただけだったf^_^;。サンフランシスコから南にある郊外、サン・マテオという閑静な住宅街に私立ノートルダム大学はあり、入学は簡単にアレンジされましたね。そこで教授をしていたイタリア系アメリカ人、ララータ氏に出会ったという次第。音大卒業して一年後のこと。←ちっとも社会貢献しないまま日本脱出(^_^;)。陽気な響きを持つ名前のとおり、彼は非常に明るく親日家であった。ララータ氏との話しは、長くなるので、また明日。写メは、ウィンナー・コーヒー。カップに盛られたバラの花は、こってり生クリームと小さな銀の粒アラザンで出来ています。見た目、豪華で素敵なこの一杯。お味はですって?限りになく甘~いヾ(≧∇≦*)ゝ。一宮海岸沿いのレストラン「白い幻想」で味わえます(^O^)/。

師事録Ⅶ・外国人

20080624224058
滋賀県での報告が入り、寸断されていた【師事録】の続きを再び書き始めます(^O^)/。話しは、大学受験間際のあたりから始めます。7人目の先生は、ウラディミール・竹の内先生。永井宏先生の大学の恩師。永井先生が調布にお住まいのウラディミール・竹之内氏のもとに私を連れて行ったのは、確か高2から高3に上がる春休みあたり。この夏には受験の課題曲が発表されるという頃合いを見計らっての紹介でした。ウラディミール・竹の内氏はロシア系白人で、アメリカに奥さんと息子さんがいらした。いわゆる単身赴任、または日本に出稼ぎ…とも言える(^o^;)。案内された竹の内先生の家の中は、初めて見る光景で驚いたものです。古めいた普通の木造平屋の家に一歩入れば、そこは別世界。カラフルな厚手のカーテンが窓からの光を遮り、薄暗い電灯に照らされた部屋はオレンジ色に空気が染まっている。畳敷きの床は、柄物の絨毯が重なるように何枚も敷かれ、置かれたグランドピアノには派手な色の布が掛かり、その上におびただしい数の写真立てが並ぶ。まるで占い師の部屋のごとし…(Θ_Θ)。それまで西洋の生活スタイルに触れたことの無かった目には、怪しげ~な雰囲気に映りましたね(笑)。開口一番「日本人がクラシック音楽なんてやっても駄目だね。僕の息子は、アメリカの大学院に通う優秀な学生でね…。」写真立ての中から一つつまみ出して【自慢の息子さん】を見せてくれた。はぁ…っ(?_?)。ウラディミール・竹の内氏は、身長2メートルはあろうかと思われるほど背が高く、片端のガッチリとした白髪の紳士。父親そっくりの息子さんは黒い髪だった。竹の内先生の教え方といえば、先ずはゆっくり弾いて→しっかり弾けたらテンポを次第に上げて…。初めての外国人に接するということで、緊張感も手伝って真面目にコツコツとゆっくりさらう練習をした。レッスンは受験曲のみ。バッハの平均律から一組に、ショパンの練習曲一曲、ベートーヴェンの【月光ソナタ】より2~3楽章。たったこれだけφ(.. ) 。因みに、レッスン代は一時間三万円という破格な値段だった。受験間際で弾けてくれば、レッスンは40分程で終わり、家に帰されることも。それでも「高いな~」なんて声にすることは無かった。外国人の先生なんだから…。【外国人】それだけのことで、畏怖&畏敬の念を抱いた。その頃の日本には、まだまだ付加価値のある言葉だったんですよ。大学受験が終わり、入学してからの4年間、竹の内先生に師事しお世話になりました。大学に進んでからも、相変わらず「駄目な日本人の一人」と見られていた為からか、ピアノにはついぞ熱心になれず、ふらふら~っと過ごしてしまったのは、返す返すも残念なこと。入学当初、面倒見の良い永井先生とは別れ難く、何度かレッスンをお願いしたものの、永井先生は恩師・竹の内先生への遠慮があったに違いない。レッスンは次第に減っていったんですね。大学4年間で上手くなったのは、スキーとテニス!祖父には「国立体育大学に入ったのかい?」と嫌味を言われていましたからね~。あはは…。

モラル

20080623092817
「直美先生!お久しぶりです~(^O^)。」今回、審査に訪れた滋賀県大津のコンペ会場で、さて休憩に入ろうと立ち上がった時に声を掛けられた。えっ…?振り向けば、なんと【みどり子さん】がニコニコしている。みどり子さんのことは、以前このコラムでも紹介したことがあります。イースタン・ミシガン州立大学での恩師ガーツ先生を介して知り合った仲。彼女は私が卒業して越した後にガーツ氏に師事しているので、アメリカでの面識は全く無かったんです。みどり子さんが日本に帰国する際に「ナオミっていうがいるから訪ねてみたら」と、しきりに薦めていたらしい。日本での「みどり子さんのピアノ人生」を心配した人の良いガーツ氏は、珍しく連絡をよこした。みどり子さんに会ってくれないか。帰国後は四国の松山という所に住む予定だから、ピアノを教えてくれたらとガーツ氏は言う。あのね…、そりゃ日本はアメリカほどデカくはないけれど、四国から千葉には習いに来れないからっ( ̄□ ̄;)!!松山に住む同窓の友人を紹介するにとどまった。しばらくして四国の香川県に仕事で行った折、その友人を訪ね愛媛の松山まで足を延ばした。その際、みどり子さんと会ったのが初めてのこと。友人を交え食事を楽しんだのは、今から三年前。…で、今回そのみどり子さんが滋賀県で声を掛けてきたのだから、世の中狭いというか、縁というか…。コンペ会場での外部との接触は誤解を招くからと禁止されていた私は「ごめんなさい。今はダメなの…」と囁いてその場を足早に立ち去るしかなかった。心残り…(;_;)。せっかく会えたのに…。審査員にモラルを求められている事項は幾つかあって、会場での外部者とのコンタクト禁止はそのひとつ。携帯電話の会場持ち込み禁止。辞書や時計替わりに使いたくてもダメ。これら誤解を招きかねない行為の自粛は理解できる。時間厳守、服装や言動に気遣うこと、なんて常識的な注意事項もあります。審査員が審査しながら譜面を繰る姿を見て、曲を良く知らないんじゃないかと、クレームが付くことがあるらしい。これについては異議&反論を申し立てます~o(_ _*)o。コメントを書く際に、小節数や記譜され方をチェックして書くことは間々あります。間違いなく伝わるよう、譜面のチェックは時には必要なんです。例えば、「クレッシェンドしましょう」より→「24小節目からのクレッシェンドが記譜されていることを見逃さないように」とアドバイスした方が、うんと分かりやすい訳ですよ。作業が手早く出来るようにと、全ての譜面に小節数を書き込む。添付されていない楽譜を揃える。楽曲について、形式や審査のポイントになる事項は、あらかじめ譜面に書き込んでおく。審査をご一緒した多くの先生方は、熱心に、かつプライドを持って仕事にあたってますこと報告しておきます(^O^)/。ただね…人間ですから誤字、脱字、乱筆、乱文はご容赦願います(^O^)/。そうそう、みどり子さんとはコンペが終わった夜に再会を喜び合いました。ご家族揃って暖かくもてなしていただき、ミシガンでの懐かしい話しに花が咲きました。ピアノを続けていて様々な出会いがあります。良かった~。コンペに携わっていると目先の結果が全てのように思えてしまうだろうけれど、日本は案外広いのと同じで、人生は案外長い!長い目でコツコツと続けようね~o(^-^)o。

比叡山

20080622062214
滋賀県の琵琶湖畔、大津にコンペの審査で来ております。琵琶湖は一周すると約250キロもあるのだそうです。でかっ(≧▽≦)ゞ。その大きさを持ってしても、滋賀県の六分の一を占めるだけなのだという。「あらっ、滋賀県の大部分は琵琶湖かと思ったわ。」タクシーに同乗したコンペ審査の先生の一言に場が和む~(=^▽^=)。連載【師事録】はちょっと休憩して、滋賀での話しを書きますね。【ゆく年くる年】に出てくるあの有名なお寺、世界文化遺産の【比叡山延暦寺】と言えば「あぁ~、あの除夜の鐘に出てくるお寺ね!」と思い出されるかと。滋賀に来て、延暦寺に参拝しない手は無い。滋賀県の大津には昼前に到着したので、ホテルのフロントで延暦寺までの道を尋ねた。目の前にあるJR大津駅からよりも、京阪線の浜大津駅から電車に乗った方がアクセスが良い。浜大津駅までは歩いてもほどないからと言われ、渡された地図を片手にテクテクと歩いたものの、実際は30分以上歩いたから2キロはあったろうか(*´Д`)=з。日頃、運動しない身には辛いっ…(>_<)。ようやくたどり着いた浜大津駅から門前町の坂本まで、電車にコトコト揺られることしばし。坂本駅前で待っていたシャトルバスに乗れば、ケーブルカーの乗り場「ケーブル坂本駅」まで連れて行ってくれる。ケーブルカーに乗って空中散歩。約10分で延暦寺駅に到着する。土砂降りの雨も山頂付近では小降りに収まり、人気のない静かな山道を延暦寺へと、傘をたたんで歩き出しました。木々も空気もじっとりと濡れた山の中は、下界とは次元が違う幻想的な世界。拝観料を払い、参拝する。国宝である延暦寺の総本堂【根本中堂(こんぽんちゅうどう)】に、僧侶達の道場である【大講堂】、国宝や重要文化財の仏像・仏画を展示している【国宝殿】と、ゆったり時間を掛けて巡りましたよ~。中でも印象に残ったのは【不滅の法灯】。根本中堂に安置された御本尊の前に置かれた三つの灯篭には火が灯り、ぼうっとした光がまるで時を見守るかのようにゆらゆらと影を落とす様は目に焼き付いています。伝教大師最澄が山を開いて以来、1200年もの間消えることなく灯され続けているとか。その後、延暦寺は織田信長により焼き討ちにされたが、豊臣&徳川家により再興されたのだそう。昨日ケーブルカーから見えたと話した「おびただしい数の石仏」は、織田信長に焼き討ちされた際の犠牲者の鎮魂を願い村人が作ったお地蔵さん達。訪れた延暦寺は平日だし、雨降りだしで、境内は閑散として行き交う人もまばら…。独り歩けば「いい日旅立ち~♪」って、歌が聞こえてくるようでした。まぁ…傍から見れば、【ワケありさん(><;)】に思われたんじゃなかろうかとも、ふと思ったりもしますけれどね…(^o^;)?そうそう、旅行記を読んでいる気分に浸っているかと思いますけれど、滋賀には審査の仕事で来たんですからっ!そこのところお忘れなくっ(^_^;)!予選が二日間に渡って開催された大津の予選会場は、【びわ湖小ホール】という音響もピアノも設備も整った環境とあり、沢山の参加者で賑わっていました。中高生になっても継続する人が増えてきたのは頼もしいばかりです。振り返れば、10年前にE級・F級を受ける子なんて、一つの会場にパラパラと居るか居ないか状態だったのにねぇ。しかもロクに弾けてはいなかった(口が悪くて、ごめんなさいね(^^ゞ)。それを思えば、ピアノを弾きこなし楽しめる層は確実に育ってきていますね~(^O^)/。この先も継続出来るよう願っていますよ~。コンペ審査会場の事前告知は出来ません。どこに行くかは内緒よ~。コンペの内容も、事後とはいえ、当然教えられません。早い時期に開催される予選は、どこもレベルが高いと聞いてはいましたが→ここ大津でも「本当にその通りね…」っと思いました。

大雨とケーブルカー

20080621041616
ピティナ・ピアノコンペティションの審査(大津・6月21&22日開催)で滋賀県の琵琶湖のほとり、大津に来ています(^O^)/。滋賀県には新幹線が乗り入れていないので、東京から京都まで新幹線で行き、そこから琵琶湖線に乗り換えて大津まで戻ることになります。コンペティション前日に移動したからには→もちろん何か観て歩かないとねぇ~(^ε^)♪。持ち前の好奇心で、早朝から通勤客に混じって出掛けてきました。ホテルに荷物を預け、世界文化遺産の比叡山延暦寺に目指して一目散に歩いてきました。生憎の天気にもメゲずに、傘をさして相当歩きましたよ~。日頃の運動不足をまとめて解消(^O^)/。比叡山に登るには坂本と言う門前町まで電車で行き、そこからシャトルバスとケーブルカーを利用するのが便利。なんとケーブルカー坂本駅では駅員さんが写真を撮ってくれました。デジカメで撮り、その場でプリントして【乗車記念】と書いた袋に入れてくれて「はい、思い出にどうぞ」ですって(*^o^*)。駅員さんの粋な計らいに、独り旅だからと恥じらっている場合じゃない。ニコニコ~パチリとポーズとりました。これじゃ~比叡山に来た思い出より、駅員さんが写真撮ってくれた思い出が強く残りますね…(^o^;)。比叡山延暦寺の話しは、またにして、まずはケーブルカーの話しをしましょう。今から80年前の大正のこと、ケーブル建設するために山を拓いていたところ、250体余りの石仏を掘り起こしたそう。織田信長の比叡山焼き討ちの際に四千人にも及んだと言われる犠牲者の冥福を祈り、村人達が石仏を作って祀ったらしいとされています。深い山の肌にぽっかりと空いた暗い洞穴。ライトに照らされ浮かび上がって見える石仏の群は、洞穴の壁一面に何段にも重なるように並ぶ。その寡黙な迫力には、ケーブルカーからチラリと見ただけでも圧倒されましたね。晴れた日には琵琶湖を望む眺望が素晴らしいというケーブルカーでしたが、辺り一面雨で煙るような白い空気が視界を遮っていました。まぁ、それはそれで幻想的で雰囲気バッチリでしたよ~(^O^)/。延暦寺を拝観した帰りのケーブルカーは、閑散としていた行きとは大違い。短髪の団体さんで通路までギュウギュウの満員状態。山頂の延暦寺駅で駅員さんが「団体さんと一緒になってしまいますがよろしいですか?」と尋ねてきた理由が、発車間際のケーブルカーに飛び乗ってから分かった。警察官か自衛隊かしら、はたまた消防の方?社員旅行、慰安旅行といった風。五分刈り頭の乗客に囲まれて、居心地は実に悪く、じいっと固まるように一点を見つめていました。どの団体さんか言って欲しかったですね(泣)。行きは良いよい、帰りは怖いっ( ̄○ ̄;)。

師事録Ⅵ・兄貴

20080620162053
高校に上がると同時に、先生が代わった。「ピアノの先生を代えてくれ。」前代未聞の申し出に、学校側はこの【じゃじゃ馬】を新卒の永井宏先生に託した。国立音大大学院を卒業したばかりの永井先生は、高校生からは兄貴のように見える。同じクラスから4人、新卒の永井先生についたけれど、そのメンバーを思い出してみれば問題児をあてがわれていた感じかな…σ(^-^;)。背が高く目鼻立ちのはっきりした仲村さんは、ピアノのレッスンには全く興味が無く、それどころかモデルになりたいと鏡ばかり覗いていた。滅多に級友とさえ口をきかない山田さんは、指をそらして弾く癖が直らず、それを指摘される度に耳の上の髪を書き上げてはため息を大袈裟に漏らして、永井先生の神経を逆なでしていた。不良の渡辺さんは長いスカートを床に引きずり上履きのかかとを踏んで(同時はスカートが長く、ペラペラに薄く潰した学生鞄を持つのがトッポイ象徴でしたから~)、レッスン中も永井先生を斜め下から睨むように見上げていた。「ガンを飛ばす。」師に対しての作法としては最低!プラス+私…(^o^;)。お気の毒に…。それでも若い彼はメゲずに熱心に指導しようと試みてくれた。私はその頃、譜読みの早さが買われて伴奏を次々と頼まれるようになっていた。歌科の先生で音楽科の主任であられた児玉百代先生から「歌もやってみないか」と誘われ、あっさりとピアノ科から歌科に転向してしまった。永井先生から「ピアノの練習が面倒くさくなったんでしょう」と嫌味を言われても知らん顔。児玉先生が指導なさる合唱部にも入り、腹の底から声を出す快感を楽しんだ。ところが、歌での活動を広げるどころか、ピアノの腕前を便利に使われただけだった。いつしか歌科の伴奏を一手に引き受け、せっかく入部した合唱部でもピアノ伴奏に回され…(?_?)。歌科に転向したというのに、声を出す代わりにせっせとピアノばかり弾くという顛末に。それみたことかと永井先生から一言。「歌科に転向してから、以前よりピアノの練習の方が増えたんじゃない?」「ふんっ↓私、伴奏に興味がありますからっ(`ε´)。」「それならピアノ科に入らないとね(`∀´)。」…むんっ( ̄^ ̄)。永井先生、ニヤリとしながら苦言を呈することを楽しんでいる様子。家に帰りピアノをさらっていると、普段は音楽に対して寡黙というか、興味を示さない父が珍しく部屋を覗いて「ピアノ科に戻ったら良いんじゃないか?」とポツリと言った。父は発声練習をする娘の奇声に耐えられなかったのかも知れない。クラシック音楽が訳わからずとも、ピアノを弾く娘の姿は好きだったのかも知れない…。普段何も言わない父の一言は胸に刺さった。ほどなくピアノ科に戻った私に、永井先生は「当然~」という顔をしていたけれど、それは無視した。しばらくして学年試験にショパンのスケルツォ第二番を弾いた時のこと。「いくつかの録音を聴いたのだけれど、どれが良いのか分からない」と、疑問をぶつけた。「10人いたら10通りの個性があるから面白いんだよ。君は11番目の個性を目指したら良いんじゃない?」さらりと言ってのけた。以来、永井先生には素直に(わりかし…)従って、大学受験までお世話になった。永井先生の恩師、ウラジーミル竹の内先生のもとに連れて行って下さったのは高2の冬。永井先生に出会うまで、女性教師の間を転々としてきた【放し飼い状態】の私には、兄貴のような大らかな存在が必要だった。以来、男性の先生に指導して頂き、ピアノに対する興味も態度も次第に変わっていった。

一宮小学校・クラスコンサート開催報告

20080619074234
千葉県、九十九里浜の海岸沿いの自動車専用道路【波乗り道路】を南へと走り、一宮町立一宮小学校にお邪魔してきました(^-^)//。JR上総一宮駅からの案内図を見ながら車をゆっくり動かすと、昔ながらの魚小売店の店先に、暖簾のように垂れ下がった品書きの紙の黄色が、目にも鮮やかに映る。ここは海の街。その魚屋の角を左折してすぐ、一宮小学校がありました。当日(18日の水曜日)は梅雨の合間の快晴に恵まれ、空は広く、どこまでも抜けるような青さ。広々とした校庭から見上げる小高い丘には、立派な剣道の稽古場が建っていて、目を引く。なんでもそこは城跡だったとか。稽古場もそれを囲む白壁の塀も、どこか城を思い起こさせる仕様になっているのが風流~。案内された三階の音楽室で、六年生の3クラスを対象に2時限目~4時限目までの三時間、一クラスごとに気持ちを集中させてピアノを弾いてきました(=^▽^=)。「こんにちは!ピアノのコンサートに行ったことのある人、手を上げて~(^O^)/。」こつ然と現れたドレスをまとった人に、身を固くする子供達。2つ~3つ、ぱらぱら~っと、しかもおずおずと手が上がる。ほとんどの子供が生のピアノ演奏に触れた経験が無い。「そう、それは良かった!私が皆さんの初めてのピアノコンサートを案内出来るのね。思い出に残るよう心を込めて弾くから、良かったと思ったら大きな拍手で応援してちょうだいな。」こんな調子の挨拶を皮切りに、あっという間の45分授業でしたよ。【乙女の祈り】や【小犬のワルツ】【革命のエチュード】などのクラシック曲に、【エンター・ティナー】【サンバ・サボテン】などノリノリのメドレーを交えて、次々に10曲弾きました。曲の紹介や、ピアノの話しをしながら、テンポ良くプログラムを進めていけば、子供達も興味を持って聴いてくれる。手の動きを見ようと、床に座ったお尻をもぞもぞと横にずらす。目が合えば、ニコニコと頷いている。一緒に手拍子しようといえば、元気良く応じてくれる。瞬く間に半時間余りが過ぎ去り、プログラムの最後は、合唱とリコーダーとの合奏で盛り上がる。ピアノ演奏には言葉が無いのに、コミュニケーションがとれる不思議な力がある。それを体感出来る瞬間が好きで、ピアノを弾いているんだと思う。子供達にピアノを弾きながら、そう思えたことに感謝していました。ありがとう。君達と短い時間だったけれど、音楽を共有できて楽しかったよ~。一宮小学校の河野校長先生は、クラリネットを嗜まれる趣味の方で【いちのみやふるさとばんど】を率いるコンマスとしても活躍する地元愛溢れる校長先生。コンサートの後に、「お茶をどうぞ」と、ねぎらって下さった。二時限目にクラスコンサートを参観して下さった校長先生は、お薦めの和菓子をお茶請けにと、私がピアノを弾いている間、自ら自転車をこいで買いに走ったのだとおっしゃる。「これはさいちゅうです。」と、最中(モナカ)を勧めるお茶目な先生に率いられ、一宮小学校の皆はのびのびと元気いっぱいでした!「ピアノのコンサートを聴いたことのある人?」こう聞かれたら、「はいっ!」と、誇らしげに手を上げてくれることでしょう。

師事録Ⅴ・反骨

20080619080813
かくて北鎌倉女子学園の音楽科に入学した私は、紺色の地にエンジ色の線の入ったセーラー服を、中学から高校と6年間着ていました。相鉄線を横浜で横須賀線に乗り換えて北鎌倉まで通うことには直ぐに慣れて、片道1時間半の通学もそれほど苦にはならなかった。国音には行かず、北鎌倉女学園(以下、北鎌と呼称)に通ったことは、今振り返ると良かったと思っていますね。当時、北鎌には附属の大学が無かったので、クラス全員が音大を目指し、音大受験校の様相を呈していました。だからこそ、中学に入学した時から、大学受験を意識して勉強していけましたからね。附属校であれば、どこかのほほん~としてしまったかも知れません。中学校は普通科、音楽科と共に一クラスづつ編成されるのみで、クラスを分ける呼び名は特に無かったんです。音楽科は中学校入学時で14人、確か普通科は少なく12人だったかな~。寺子屋のようなこじんまりとしたサイズでしたね。高等部になると外入生の入学により、普通科は複数クラスに膨れ上がり、クラスは、松・竹・梅・蘭・菊・桐と、いかにも時代掛かった渋い名前で呼ばれていたけれど、未だにその伝統は守っているのかしら?音楽科は、高校からの外入生を加えても24人しかいなかったので、一クラスのまま。中学校から入学したら6年間、高校からは3年間、クラス替えなく同級生として付き合っていくことになります(*^_^*)。中学では田口先生と仰る、逗子にお住まいの国音卒の先生についていました。経緯は分からないけれど、国音に未練のあった母が「国音卒業の先生」を学校にリクエストしたのかも知れない(^_^;)。田口先生は【独創性】や【自由】という言葉を嫌い、【言った通りに弾く】ことを強調する教え方。(当時の私には、きちんと指導してくださろうとする先生の姿がそう思えたんですね。)中学生の反抗期に、またそのあたりからロマン派の曲に触れだしたこともあり、自我が強く出てきた頃ですから、何に対しても反骨精神を持っていたのどろうと思います。「私はこう弾きたい」なんて反論すれば、即座に却下されることを繰り返していたんですね。ある日の参観日に、クラスメートの母親が横をすり抜けた私の腕をぎゅっと掴んだことがありました。力がこもる手にギョッとして、振り払おうとしても離さない。密やかに低い声で囁く。「あなた自分の先生が気に入らないって言っているそうじゃない。子供のくせに生意気よ!そんな態度で生きていけると思ったら大間違いよ!」田口先生と私との間の個人レッスンなのに、何故そんなことが噂になっているんだろう?普段の個人レッスンの形態は密室状態だから、他人にそれをどうこう言われるはずがない。どちらかが外部の人間に漏らさなけばね…。田口先生は素直に言うことをきかない生徒に手を焼いて、愚痴でもこぼされたのかもしれない。先生が気に入らないのではなく、好きなように自由に弾かせてもらえないのが嫌なんだ(`へ´)。生意気盛りの私に、この【助言】は拍車を掛けただけだった。「先生を代えてもらうよう学校に頼んで」と言い出した娘に、驚きもせず受け入れた母の肝っ玉もなかなか凄い。なにせ、当時はピアノの先生は【絶対】と同義語でありましたからね…。その意味で我を通すなんぞは、反逆者であったわけです(^o^;)。

師事録Ⅳ・独立独歩

20080617063214
小学校最後の年、国立音楽大学附属中学校で教えていらした結城先生に、音中受験を目指して習うことになった。谷保という南武線の駅から歩いてわずか、閑静な住宅地に結城先生のお宅はあった。立川に向かう南武線と中央線は、国立駅のあたりでは南北に平行して走っていて、谷保駅は国立駅からみると南に2~3キロほど下ったところにある。駅と駅の間を結ぶ大通りには、一橋大学と国立音大の校舎が並び、こじゃれた喫茶店(今ならばカフェと呼ぶところ)が、ここそこに店を構えている。横浜の片田舎からすれば、なんと洗練された街並みなんだろう。この辺りは一本大通りを入ると緑が多く残る。それまで近場の先生を転々としていたことからすれば、いよいよ都に出て行くぞという意気込みさえ感じさせる。初めて谷保駅に降り立った日は快晴で、空高く胸が踊ったことは鮮明に覚えている。結城先生は、ご自宅のある敷地内に別棟の二階建てレッスン室を建てていらした。一階はアトリエに、仕切りの無い二階の部屋には中央にグランド・ピアノを一台置いてレッスン室にしていた。生活臭の全くない空間。二階のレッスン室へは急な螺旋状にしつらえた階段を上る。階段の上り口からチラリと見えるアトリエには、画板を掛けたイーゼルなんかがあって「これぞまさしく芸術家の家」と、子供ながらに感心していた。部屋の片隅には青いロータイプのソファがあり、前の生徒さんのレッスンが終わるまで、じいっと緊張しながら待っていた。娘のピアノにあまり興味を示さなかった父も、国立には車で何回も送り迎えしてくれるようになった。レッスンが終わるまで辛抱強く車内で待ち、帰り道は流石に眠くなったのか、ハンドルを握りながら左拳で自分の膝をパンパンと叩いて眠気を覚ましていた姿が懐かしい。結城先生には入試の為の曲を習った。彼女が「こう弾くのよ」と、ピアノを弾いてくれたことは無かったと思う。モーツァルトのソナタK.333・変ロ長調の第一楽章を弾いて入試に臨んだことは記憶にある。結果、国音には補欠で合格。母によると「補欠なら行かない(`へ´)!」と、蹴ったらしい。滑り止めで受験した北鎌倉にある北鎌倉女子学園に併設された音楽科に入学することになり、結城先生とは【芸術家の棲む家】を垣間見て終わりになった。 それにしても、わずか小学校六年生の身で「補欠なら行かない!」と言い切るあたりが、笑える(^o^;)。チビの頃から「独立独歩、我が道を行く」だったのね…(笑)。

あやめ

20080616102227
今日は、『師事録』の続きをお休みして、『旅行記』もとい→新潟の新発田(しばた)で、15日の日曜日に開催されたピィティナ・ピアノステップに行って来た話しを書きます。東京駅から新潟駅へは上越新幹線【Maxマックスとき】に乗ると1時間40分程で着きます。速いよっ(>_<)☆彡。新発田という街は城下町で、ゴミ一つ落ちていない風情のある綺麗な街でした。新発田に向かって出発したステップ開催前日の土曜日は、午前中に宮城県で大地震が発生し、レッスンをしながら地震発生のニュースを気にしていました。東北新幹線は止まってしまったようでしたが、上越新幹線は夜には15分遅れで東京を出発しました。ご存知でしたか?マックスは全車両二階建てなんですよ~。もちろん「おのぼりさん」の私は、二階席の窓側を陣取りました!新潟から特急に乗り換えて20分ほどで新発田に着きます。新発田に到着したのは夜の10時。郷土料理の【唐寿司(からずし)】を試してみたいと思っていたので、暖簾を下ろしかけた駅前の寿司屋「なかじま」に飛び込んで【唐寿司】を頂きました。オカラを甘酸で味付けした物をシャリに見立てて握った寿司。鯵の酢漬けがオカラのシャリの上に乗かって甘酸っぱい味わい。オカラを余さずに食べるという先人の知恵だね~(^O^)/。翌日の日曜日、新発田ステップは、就学前のおチビちゃんから70の手習いで始めたという人生の先輩まで、80名余りの参加者が集まり和やかな雰囲気の中、夕刻の6時あたりには無事終了(^O^)/。以前から懇意にして下さっている諏訪幹雄先生と、京都からいらした物腰の柔らかい平松優子先生と連れ立って、夕暮れの中、「五十公野(いじみの)公園」にて、新発田の街のシンボル【あやめ】を観て来ました。まだ二分咲きとは言え、黄色に白に紫と色鮮やかなあやめの群生は見応えがありました。いつもの一人旅とは違って、旅の友が一緒なのは何よりも楽しかったですよ~o(^▽^)o。今朝、月曜日は朝一番で帰って来ました。水曜日に一宮小学校でクラスコンサートがありますから、レッスンの前に練習しないとね。明日からは、『師事録』の続きを書きます。音楽中学受験を目指していた、小学六年生の頃の話しになります。

師事録Ⅲ・身近なる夢

20080615225901
自ら「ピアニストになる」と言った覚えはないけれど、それを聞いた母は、どこからか山崎先生を紹介してもらってきた。山崎先生は自宅から程近くにお住まいで、国立音楽大学の【楽理】を卒業なさったばかりの才媛というプロフィールが、母のお気に召したのだと思う。音大のピアノ科卒業ならゴマンといる中で、在籍数の少ない学理卒は稀有な存在になる。【楽理】に入学にあたっては、実技より学業を重視するとは聞き知ってはいたが、果たして【楽理】が何を専攻するのやらさっぱり分からない母であった。けれど、母にとって【楽理】という言葉には特別な響きがあったようだ。子供がピアニストになりたいと言うなら、ピアニストの元へと連れていけば良さそうなものだけれどね…(-.-;)。この時点で母は「娘は音大へ」と夢見始めていたと思う。娘の私は、彼女の夢が現実に向かって膨らみ始めていることを知っていた。母は「近所の評判のお嬢さん」山崎先生に娘の将来を重ね合わせて見ていたのかも知れない。山崎先生とは穏和なレッスンだったに違いないと思う→だって、何を教わったのかまるで覚えていないくらいだから(^o^;)。特に叱られもしないし、むやみに誉められもしなかった。自由に弾かせて、曲が形になってくれば次の課題を与えられるといった、のんびりしたレッスンがほぼ二年間位続いたのではないかな。当時使っていたツェルニー教則本なんかを広げてみれば、赤い鉛筆で「小指も立てて」と一言さらりと余白に書き込みがある程度。これを見ると、生まれつきピアノが弾けたに違いないと思い込んでいる自分としては「えっ?私の小指寝てたんだ( ̄○ ̄;)!」と苦笑を誘う。そのうちに中学から音校に進学しようという話しが持ち上がり、山崎先生を介して国立音大附属の中学校で教えていた結城先生を紹介して頂いた。山崎先生に関して覚えていることと言えば、しばらくして結婚した彼女が川崎あたりの新居アパートに越してから、もう一人の生徒と共に「お昼を食べにいらっしゃい」と招待して下さったこと。電車に乗って訪ねて行った。駅まで迎えに来てくれた山崎先生は、新米主婦振りを発揮し、手料理でもてなしてくれた。見たことのない食材が入ったサラダには「こんな珍しい物食べてるんだ!流石、音大出た人は違うなぁ~!!」と痛く感心した。影響力(=^▽^=)!これは母の娘を【音大に行かしたい願望】の成せる技だったに違いない(^_^;)。キウィにブロッコリー。今では珍しい食べ物では無いけれど、当時はまだまだ市場に出回ってはおらず、その時に初めて味わいましたね。堅くて酸っぱい緑の代物は、果物の一種だと言う。もそもそと口の中で噛むと青臭い匂いがする野菜は、緑色のカリフラワーではなくブロッコリーと呼ぶのだそう。慣れない食材は、口に合わなかった記憶が鮮明に残る(-o-;)。山崎先生は師と仰ぐ存在と言うよりは、良いお姉さんだったのかな~と思う。音楽家に育つために教わったことは少なかったかも知れないけれど、音大に行きたいという希望を身近に感じさせてくれた。

師事録Ⅱ・ミスマッチ

20080614001116
母は結婚してからも、幼稚園の教諭として実家から歩いて五分ほどにある瀬谷幼稚園に、私が産まれるまで勤めていた。幼稚園を辞めてからも、課外教室のピアノは教えていた。家事を切り盛りしながら、自宅でも教室を開きピアノを教え、更にヤマハのピアノ教室で幼児のグループレッスンを教えていたというから、相当忙しかったに違いない。母の子育ては、放任ではないけれど、放置はしていた。どう考えても、子供に手は掛けられなかったと思う。おかげで自立だけは早かったかな~(^o^;)。小さな時分から、思い立った事は、誰に相談することもなく自分でやってのけていた。(良いか悪いかは別として。)小学2年生の時、親に黙って勝手にピアノの町田にある先生宅に電車とバスを乗り継いで行った時も、母は「危ないから」と叱るよりも「一人で行けるなら手が掛からずに良かった」くらいに受け応えていたのには気が抜けた。二人目のピアノの先生は内藤先生と言い、この辺から、ついた先生の記憶が始まる。内藤先生は、母が教えていたヤマハ教室の同僚であった縁で教えて頂くことになったそう。熱心な指導に加え、講師演奏をしてもなかなかの腕前と評判の良かった内藤先生に、母は白羽の矢を立てた。始めは大和市にあるヤマハの教室で教わっていたが、直に町田にある内藤先生のご自宅に通うことになった。手渡された地図を片手に、行ったこともない町田の先生宅を訪ねて行ったのには訳がある。レッスンに付いてきては「あーだこーだ」と口やかましい母がうとましく、先生のご自宅へは独りで通うことに勝手に決めていた。そこで初めの自宅レッスンに、親に内緒で自力で先方にたどり着き「行ってきたから」と事後報告をした次第。まんまと、親はレッスンに付いて来なくなったものの、「◎丸をもらってこい」と相変わらず口を挟む母には嘘をついて応戦した。特に大嫌いだったツェルニー練習曲には、嘘を連発した。「丸、貰えたよ…」と、赤鉛筆で花丸を書き込んだ。しかしこれは浅はかな嘘であった。◎丸をもらったからには、次の新しい曲をさらっていかなくてはならない羽目に陥る算段までには考えが及ばなかったm(..)m。おかげで練習曲はどんどん進んだ(^_^;)。内藤先生は厳しく、テンポが揺れるものなら、左側の肩をバンバンと叩いて拍子をとった。この行為は大嫌いで、彼女の手が伸びると、その手を避けながらテンポを刻む術を覚えた。横に座る彼女から楽譜が良く見えないようにと、譜面を自分の側にうんと引き寄せる意地悪をした。「うつむいて鍵盤を見てばかりいないで、顔を上げて弾きなさい」と言われ、わざと天井を見上げながら弾いた。「鍵盤は見ないでも弾けなくちゃ駄目よ」と言われ、譜面台にセルロイド下敷きを挟み込んで目隠しして弾くという妙技に高じた。凛とした内藤先生には師として慕うという感情を持つどころか、ことごとく無言の抵抗を試みていたことだけは覚えているf^_^;。破天荒な変わった子供だと思われていたに違いない…(・ω・)/。ミスマッチ。生真面目な内藤先生は、マイペースを押し通そうとする生徒に手を焼いたに違いない。そんな不真面目な態度でピアノに臨んでいたにもかかわらず、ある日「ピアニストになるから」と明言した私に、母は新たな先生を紹介してもらってきた。写メは【カフェオレ・あんパン】。コーヒー味のアンコにホイップクリームという、あり得ない感じが美味しい~o(^-^)o。ミスマッチな味にハマル。

師事録Ⅰ・バラの咲く庭

20080613141637
ピアノに初めて触れた日は、残念ながら覚えていません。ピアノを習い始めた頃の記憶も無いので、バカバカしいけれど「産まれつきピアノが弾けたんじゃないか」と思ってます~(^_-)。どうやって指を一本一本動かしたのか?いかにして楽譜を読む術を覚えていったのか?早いうちからピアノに触れていたせいか、その辺りの苦労も感じた覚えがないんですね‥。赤ん坊が次第に言葉を覚えるような感じかな~o(^-^)o。いつの間にかピアノは弾けていた。今回、今までに出会ったピアノの先生について【師事録】を書こうとしたところが、幼少時期の記憶がないものだから、母を捕まえてインタビュー。母の話しを聞くにつれ「なんで、もっと早くからまともな先生につけなかったのよっ(-з-)」と、なじってしまいましたねσ(^-^;)。チビの頃からメチャクチャに遊び弾きをしていたピアノに満足できなくなり、3歳の時に「教えて~」とせがんで母に教えてもらい始めたらしい。母のピアノ教室に通ってくる生徒のレッスンの合間に、ちょこちょこっと教えてもらっていたという程度。ほとんど独学状態で弾いていたのだけれど、果たしてその年齢で、どうやって指を動かしていたのだか、いかにして楽譜を読みだしたのか┐(´ー`)┌?…全く記憶が無い。母の指導で覚えているのは、指に色とりどりのモールを巻いてくれたこと、それが嬉しかったこと。「教えて~」と、うるさくまとわり付くと、クレヨンで音符を塗るようにと追い払われたこと。生徒に混じって聴音することが楽しくて、五線紙と鉛筆を持っては部屋の中をウロウロしていたこと…位かな~。それより前のまだ赤ん坊と呼べる頃から、ピアノの前に座らせておいたら、飽くことなく鍵盤を叩いていたと言う。大家族を切り盛りし、ピアノを教えるという職業を持つ母は、これ幸いとばかりに洗濯を干す時や炊事で手が空かない時には、ピアノの前に座らせて勝手に叩かせておいたのだとか。年子の妹がいたのだから、想像するに母の手は常に空かず、私はピアノの前に置き去りにされていたのではないかしらね…(*u_u)。母からまだらな手ほどきを受けていたピアノだけれど、幼稚園の卒園式にはブルグミュラーの【貴婦人の乗馬】を得意気に披露していたらしい。小学校に上がる時点で、ソナチネやバッハのインヴェンションを独学で弾き始め、これは手に追えないと感じた母は先生を探し始めたそう。初めての先生は、芸大を卒業した成田先生。成田さんは、三菱造船の重役のお嬢さんであったとか。同じ三菱造船が開発した分譲地内なのに、実家からみて北の端に位置する重役さんの成田家の敷地は、少なくともふた周りは広かった。成田先生にお世話になりながら、ご本人のことを「ちっとも覚えていない」なんて言うのは大変失礼なことだけれど…、先生については何にも覚えていない(^o^;)。覚えているのは庭のことだけ…。芝の青々とした広い庭にはバラが植えられていて、生け垣より高い位置に花を咲かせていた。当時にすれば、バラの花が庭先に誇らしげに咲いていること自体が、子供の目には格式高い印象に映ったものでしたね。(家の庭では、祖父が丹誠込めて育てていた菊の鉢が並んでいたし…。和風~。)当時、あんパンやバスの運賃が10円の時代に、ワンレッスンが4000円したというから破格な値段( ̄○ ̄;)。その成田先生は間もなく東京にお嫁にいって、しばらくは土日に実家にピアノを教えに帰ってきてはいたものの、横浜には定期的に帰ってこれなくなり、初めてのピアノの先生とのお付き合いはわずか一年程で終わってしまった。母は再び先生探しに悩んだ。

ト書き・師事録

20080612081839
横浜郊外の戸塚と呼ばれる街で産まれ、大学に進学するまでそこに住んでいましたp(^-^)q。その後人口が増えて、戸塚は戸塚区と瀬谷区とに分けられ、実家は瀬谷区として区画整理されたのは、確か私が中学生の頃だったかな~。最寄りの駅は相鉄線の三ツ境駅。そこからバスで10分ほどの南台と呼ばれる住宅に実家はありました。祖父の勤めていた三菱造船が所有していた土地を社員に分譲住宅として販売し、その一区画を購入して移り住んだのだと母から聞いていました。今から50年以上も前のことで、当時母は高校生だったそう。住宅地とはいえ、開発された頃には狸(タヌキ)が出るような田舎だったと言います。母の記憶によれば、越した当時のバス運賃は片道10円。運賃を回収する車掌さんが、大きな【がま口】鞄を肩から斜め掛けにしてバス中央のドア付近に乗り合っていたのは、私が小学生の頃の記憶として覚えていますね。駅前の「駐車場」(現代ならば「ロータリー」と呼ばれる場所)はまだ舗装されていなくて、ピアノのレッスンの帰りに駅前でバスを待っていると、土煙を上げながらバスが待合いに走り込んで来る度に、もうもうと上がる土煙を吸わないようにと息を止めていましたっけ(*^o^*)。正に「オルウェイズ三丁目」の世界~。住宅地から少し外れた辺り一面には田んぼが広がり、道端に流れる水路でザリガニ取りをしたり、長靴の中に泥水を入れて遊んだり。泥まみれになりながら、暗くなるまで遊んだものです。農家の建て前や棟上げ式だと言えば、お祝いに投げられる餅やら紙に包まれた小銭やらを拾いに行ったりと…。横浜とはいえ、今とは違いまだまだ田園風景が広がっていましたね。自然に囲まれ、外遊びのしたい盛りに、母に首根っこを掴まれてはピアノの前に座らせられていました(^_^;)。今思えば、母は【職業夫人】・【教育ママ】の先駆者=ハシリでしたから…(*^_^*)。それはそれは、凄まじい勢いでした!!それはさておき、以前コラムに、これまでに所有したピアノ達を【ピアノ遍歴】としてシリーズで書きました。明日から【師事録】と題して、これまでに師事してきた先生方との日々を、自分史の一ページとして書きますねv(^-^)v。これまで教えて頂いた先生はたくさんいらして、ずっとそのことを書きたいという気持ちを温めてきたものの、相手が生身の人間であれば慎重にならざるを得ないし…(^^ゞ。あれこれ考えると、なかなか書き出せなかったのですよ…。端から見たらそう見えないだろうけれど、これで慎重なところが→少しはある(f^_^;)。しかし、記憶の定かな内に書かなくては!師事してきた先生方に感謝と敬意を込めて【師事録】明日より書き始めます。

新発田

20080611085816
この週末には新潟県の新発田に行きます。15日の日曜日に新発田で開催されるピィティナのピアノステップにて、アドバイスしてきます(^O^)/。【新発田】と書いて【しばた】と読むことを初めて知りました(^o^;)。新潟県は祖父の出身地で、小さい頃は長岡まで行き、そこからローカル線で田んぼの中を揺られて行った記憶があります。到着駅では、電車のドアを手で開けるのにビックリしたこと。腰の曲がったお婆さんが、台所の床にペタンと座って、作りたての草餅を笹の葉でダルマ型にくるりくるりと器用に包んでいたこと。イナゴの佃煮に仰天したこと。叔母がいちご酒を口にした途端にむせたこと。藁でできた蓑や傘、雪の日に履く【かんじき】なんかが納屋にあって、面白い半分に身にまとってみたこと。夜には蚊帳(カヤ)を張った中に布団を敷いて寝たこと。オレンジ味のチェリオが美味しくて、おじさんにせがんで何本も飲ませてもらったこと。その叔父が亡くなったとの知らせは、母が電話に出る前、呼び出し音が鳴っている時に何故だか既に分かったこと。今回、新潟での仕事と聞いて、沢山の写真を眺めるかのように記憶がフラッシュバックしました。世代が代わり、新潟に足を運ぶことはなくなった今、懐かしさを辿るように行ってこようかな…。

スタートダッシュ

20080611084023
先週末から門下生のコンペが始まりました。いよいよ暑い夏に向かってスタート(^O^)/。「よお~い、ドン!」って、ピストルの音が聞こえたかのようでした(〒_〒)。一人の先生が指導する数には限度ってものがある。この状態がピークだから!毎年、そう言い聞かせては、タイトなスケジュールに追われる夏を乗り切ってきました。ところが→今年は更にピークが高くなりそうで…(>_<)。ピィティナ・ピアノコンペティションの予選&本選の審査に加え、クラシック・コンクールの審査依頼があり、かつ門下生達は複数のコンペを同時に受け出すし(練習は嫌いだけどコンペ好きという、ちゃっかり型が多い…)、演奏の依頼も途切れずで…。有り難いことです。な~んて謙虚に受け止める余裕も無く、真っ黒に書き込まれたスケジュール帳を、焦慮感からくるため息まじりに眺めてます。何の為のため息かですって?遊ぶ時間が→無い(ノ_・。)。あちらこちらへと足を伸ばしては遊んでるじゃないっ!!そうお怒りの読者もいらっしゃるかと思いますが、本人は映画観たい、買い物したい、ホテルのランチ行きたい、などと→ほざいてます。さて、皆さん、スタートダッシュで息切れしませんように(・ω・)/。過ぎてみれば短い夏となるでしょうが、これからの夏を思えば長丁場。スタミナが要りますよ~。←自戒の念を込めて書いている。コンペ審査の派遣会場は…事前にはマル秘です(^^ゞ。追々、お話ししますね~(*^_^*)。気を持たせてるしっ!!

夢、培う

20080611082040
小さな頃、何になりたかったですか?「将来に思いを馳せて欲しい。」学校クラスコンサートにそんなメッセージを込めたいと昨日のコラムに書いたけれど、大人の我々はどうだったんだろう?自分の夢は、時折変わっていきましたね。ピアニストに始まり、刑事、考古学者、カメラマン、通訳、お嫁さん…と、思い出せば列挙できる(^o^;)。あなたの夢は何だったのか思い出すことはありますか?たとえ夢は叶わなかったとしても、夢を抱いていたあの頃を思い出す度に、懐かしく優しい気分に浸れますよね。私にとって、ピアニストという職業は憧れのひとつだった。しかし決して手の届くはずのない夢だと思い込んでいたっけ。手が小さいから、才能が抜群にあるわけではないから、二十歳までに芽が出なきゃ駄目、ピアニストになんかなれる訳がない、ましてや職業として生計は成り立たない。…周りの大人達は、口を揃えて否定的だったし、そのことに関しては納得していた。端っから夢は夢として、あまり力まずにピアノを続けていたら、いつしか「ピアニスト」と呼ばれるようになって、その度にちょっとした【居心地の悪さ】と【こそばゆい感覚】を同時に味わうんですよ(//▽//)。まぁ…、ピアニストという職場に資格があるわけではないから「ピアノを弾く人=ピアニスト」とも言えるけれどね。ピアニストと呼ばれる今だって、確かにピアノを弾くだけでは生計は立たない。ちょっぴりのギャラ。けれど、ピアノを弾いて幾ばくかを頂いていることを考えれば、職業ピアニストにはなるのかな~って思いますね(*^ー^)ノ。そう呼ばれ続ける為には、継続という気の遠くなるような長~い道を歩んでいかなくてはならない(Θ_Θ)。多分、死ぬ瞬間まで歩き続ける(ρ_-)o。こんなんで良いのかな~って、未だに己に対して疑問もあるから。納得はしていない。もう少しましにピアノが弾けるようになるんじゃないかって。その意味では、まだ自分は伸びると信じてるのかもしれない。これで良かったんだって納得できるのはまだまだ先のこと。夢には、叶った瞬間に喜びに浸れる夢と、年月を掛けて培う夢とがある。何にでもなれる。子供達に話し掛ける度に、彼等の可能性の広がりを思うとワクワクしますね。没頭出来ること、こだわりを持てる分野に出会えると良いね。

ポスター

20080611064821
6月18日の水曜日、一宮町立一宮小学校にて開催される、クラスコンサートのポスターが出来てきました(^-^)/。対象は六年生の三クラス。二時限目から四時限目までの三時間を使って、学校の音楽室に集まった生徒達、一クラスごとに同じプログラムを三回繰り返し弾いていきます。長丁場~(*^_^*)。大抵この場合は、演奏の出来に決まったような波がありますね。一回目の演奏はそこそこ。いまいち空気に馴染めず、音楽に集中し切れない感じ。二回目はピアノにも場にも慣れてきて、その日のベストが出る。三回目は疲れを感じ始める自分との戦い。この波長を知った上で、自己をコントロールしていきます。たかがピアノとはいえ、今は多様な仕事があります。ピアノを教える、ピアノを弾く、演奏についてアドバイスする、ピアノコンクールなどの審査をする、楽曲について語る、そして書く、etc.。【弾く】ことひとつをとっても、様々なシチュエーションがあるんですよ。二時間に及ぶフルサイズのコンサートから、ほんの15分程度のミニコンサートまで。演奏する対象も、親子連れ、学生、ピアノ教師、クラシック・オタクさん、老人会などなど、時と場合によって変わります。言われたままに、ひとつひとつ依頼をこなしていくうちに、何だか鍛えられましたよ~(≧▽≦)。学校クラスコンサートも様々なシチュエーションのひとつです。そりゃあ、体育館に子供達を集めて弾いてしまえば、一回公演で済みます。そこを、あえて対象のサイズをうんと小さく、一クラス単位にして弾いていく。これまでにも体育館の舞台の上で弾いたことがありました。でもね…、静かに聴いている子供の息づかいは遠く、床にペタンと体操座りをする子供達とのコミュニケーションは取り難いものでした。クラスコンサートは、もっと身近に【生のピアノ演奏】を体験してもらおうとする企画。冷たい体育館の床から遠い壇上のピアノを聴くよりは、音楽室のピアノを囲み手を伸ばせば触れられる至近距離で聴く方が、もちろん子供達に与えるインパクトはうんと強いですよ。それを聴いて、どうして欲しいかですって?子供達にピアノを習って欲しいとか、習っているピアノを続けてもらいたいなんていうことではないんです。様々な世界があるってことに触れてもらえたら、それで良い。そして、これからの将来に向かって自分に出来ることは何だろうってな~って考え始めてくれたらなら…くらいに思ってます。←そりゃあ、ピアノを弾くより難しい課題だっ(→o←)ゞ。

二台でピアノあそび

20080607072010
【二台でピアノあそび】秋のイベントを計画し、すでにそれに向かって始動しています(^O^)。10月25&26日の土日に開催予定の成東ステップでは、白石照男先生と二台ピアノのトークコンサートを計画しますと、先日のコラム【ボケとつっこみ】(5月31日付け)でお知らせしました。そのプログラムが決まりましたのでお知らせします(^O^)~・。15分の短い時間なので、三曲にプラス、アンコール一曲で考えました。先ずは、サミュエル・バーバー作曲のバレエ組曲【スーバニア=思い出】の中から「ワルツ」を選曲。旅行先のフランスにてカフェでくつろぐ気分を味わえるよいな洒落たワルツ。2曲目はビゼー作品の【カルメン】を、情熱的に華やかに。そしてラストは、ヨハン・シュトラウスの【ウィーンの森の物語】より「美しく青きドナウ川」で優雅に閉める。ここで「ピアノ弾けたら楽しそう」と思ってもらえたら成功(^O^)/…と勝手な期待をする(*^_^*)。アンコールは「ルパン三世のテーマ」でノリノリの拍手喝采→予定ではウケるはず(*^o^*)。白石先生をレッスン室に呼び立てて「選曲どうします?」って言いながら、プリモ、つまり第一ピアノ側にちゃっかり腰掛けてましたね。客席から見て、自分が白石先生の影にならないように…って、どこかで思っていたに違いない行動だぁ…確信犯?。選曲に際しては、次々と気になっていた曲を一緒に初見してもらいながら「この曲は良い。これはダメ!」と、チャキチャキ~っと選曲。上記の三曲を選び出し「…で、曲の順番どうします?」ときた。そう言う傍らから、プログラムをメモに書き込んでいるし。一人で喋って、一人で決めている状態。ごめんなさいね…きっと温厚な白石先生は、この一方的なスピードに押しまくられ、面食らっていらしたに違いないと気が付いた時には→全ての事が決まっていました(^o^;)。あはっ。こんな自分勝手な人間とアンサンブルだなんて、果たして出来るんだろか?そう思われたことでしょう。他人と合わせる。一番苦手なことに挑戦します!←この何物にもめげない精神ってどうなんだろうか?

チャーム

20080606142620
これが今回旅行先に持って行ったバッグにチャーム。大人っぽい燻した金色のバッグは、柔らかくて軽くて、持ち歩くのに楽チンなノーブランド。スニーカーのチャームがご愛嬌♪(*^ ・^)。これは東金ステップで配ったお土産の品物です。さて、東金ステップの報告と写真がピティナのホームページhttp://www.piano.or.jpステップのページにアップされています。リンクからもアクセス出来ます。文章は以前、このコラムの欄にて書いたもの→原文そのまま引用されていまして、直美節バリバリ…(^_^;)。写真は集合写真の抜粋とトークコンサートのもの。トークコンサートの写真は、立ち姿で挨拶しているところ一枚だけしか無かったんですね…。演奏している様子を撮した写真が無い!!スタッフは客席や舞台袖で聴いていたらしい…(Θ_Θ)。来年の課題が出来ました。記録写真は残しましょ~( ̄ー ̄)。

ジオラマ

20080605001245
お尻がいい加減痛くなった頃、ようやくバスは世界遺産の【白川郷】に到着\(^_^)/。岐阜駅から3時間あまり高速バスに揺られてやって来ました。それでも高山駅まで電車で2時間かけ、そこからバスに乗り換えてさらに2時間余り、という行程よりはまだ速いo(_ _*)o。到着したバス停の周りはきれいに整備され、合掌造りを模した土産物屋がバス乗り場をくるりと囲むように並ぶ。山里を見下ろせる展望台へはマイクロバスが走る。展望台から里へと山を下りながら、公開されている旧家を覗き、そぞろ歩くのが良いと観光案内所で教えてもらった。観光地化された白川郷は、まるでシルバニア・ファミリーの【日本昔話バージョン】といった景観…。どこそこの資料館とか記念館の入り口ロビーにしつらえてあるジオラマに入り込んだような錯覚もする。合掌造りの旧家、和田家と長瀬家を拝観したら、どれも同じ感じだからもういいやってなりましたね(笑)。ただっぴろい居間に炉がきってある一階。道具類が仕舞われている中二階。三階の蚕部屋に置かれた農作業具や昔の家財などの展示品。長瀬家では、NHKで放映された茅葺屋根葺き替えを収録した番組のビィデオを観て、歩き疲れた足を休めていました。長瀬家を出て、道をはさんだ向かいに佇む、これまた合掌造りの【落人】という喫茶店に入って一休み。コーヒーを頼めば一杯550円。都会並~(*_*)。そこのママさんとしばし歓談。お客は私一人。ママさんは、白川郷に前橋からお嫁にきたそう。冬は盆地であるため雪深く、その厳しさはいまだに慣れないとか。雪の白川郷は一見の価値があるから是非またいらっしゃい。白川郷へは、金沢から入るのが良い。(せっかくの案内に、金沢までが遠いと、水を注すようなことはこの際言わなかった。)モダン雰囲気の彼女は、買い物は不便と言う。(そりゃぁ、そうでしょう。)5時に店じまいしてから、高速を小一時間ほど車で飛ばして街に出るのだそう。そんな彼女の身の上話しに相槌を打ちながら、私の印象に合うからといって紫陽花模様のカップに淹れてくれたコーヒーを頂いていた。接客上手~。次のお客さんが入ってきたのを機に「また来ます」と言って、お店を出た。里中心に伸びる街道を、再びてくてくとバス停に向かって再び歩き始める。街道の両脇には土産物屋が並ぶ。幾つものソフトクリーム屋がまるで軽井沢チック。お味の方は、抹茶に始まり、黒胡麻、よもぎ、そば、きび、どぶろく?と、和なテイストが揃う。現在、23件の合掌造りの民家が民宿を営んでいるそう。(ペンションとは決して呼ばない。)世界遺産に指定されて、山里は潤ったろうに違いないけれど、今じゃ世界遺産に登録された17年前の景観とは違うものになってしまったのだったろうな…って、思わずにはいられませんでしたね(ρ_-)o。帰りは再びバスに乗り、白川郷から名古屋駅まで直通で3時間。お尻は→しびれた(;_;)。ところで、「秘境」という言葉は、人にあまり知られていない土地を指すらしい。その意味では、白川郷はもはや秘境ではないんですね~。

白川郷

20080604000623
やはり気になって×気になって。世界遺産の【白川郷】へ強行でしたが行ってきました(=^▽^=)。←「どうせ、そんなことだろう」って思っていらした方、いらっしゃいますよねぇ。そう思われた方、このコラムの愛読者さんです!あはは…。白川郷は、平成7年(1995年)の暮れにユネスコの世界文化遺産に登録され、一気に人々の関心を惹く。また平成13年には、村人や全国からのボランティア総勢五百人の手によって、白川郷の旧家長瀬家の屋根葺き替えの様子がNHKで放映され、全国各地どころか世界各国から観光客が訪れるようになった。一躍、観光名所となる。ホテルのフロントで調べてもらい、岐阜からは高速バスを乗り継いで3時間で白川郷に行けることを知り、何が何でも行ってみたくなって(*^_^*)。帰りは白川郷から名古屋に直行バスで3時間で戻れるらしい。往復6時間バスに揺られることを思っても、尚諦められないヾ( ´ー`)。天気は今ひとつで午後から雨が降るとの予報だし…m(_ _)m。お昼過ぎから70%の雨の確率(>_<)。どうしようかなぁ~?行こうか、行くまいか?二度とこちらの方面に来ることはないかも知れない…。迷いながらもバスターミナルに向かってすたすたと歩き出していました(^o^;)。白川郷は、合掌造りといわれる藁葺き屋根の民家が建ち並ぶ里山です。その集落自体が世界遺産であり、その内の一軒、和田屋が国の重要文化財に指定されているのだとか。白川郷は雪深いため、雪が積もらないようにと三角屋根は急勾配。その形が両手を合わせて合掌している様に似ているところから【合掌造り】と言われるようになったとか。白川郷には三時間半ほど滞在して、ぶらぶら~っと散策していました。天気は曇り空でしたけれど、雨は降りませんでした。小さなことには運が良いんですよ。白川郷散策の話しは→また明日(^O^)/。

旬な先生

20080603054807
遊んでばかりじゃあ~ありません←言い訳モード(^_^)v。もちろん岐阜には仕事で来ました。日響楽器店で開催された岐阜中夏期ステップは今年で6年目。今回は120名の参加者が集まり大盛況。この数を4人のアドバイザーがローテーションを組んで一日で対応しました。このシステムだと、各先生が交代で休みを取りながらアドバイスにあたります。計2時間に及ぶ一人ぼっちの休み時間は手持ち無沙汰になってしまうので…。休憩時間には楽器店の練習室を使わせて頂き、ちゃっかり練習をしてました('-^*)/。講評では田中カレン作の「ジャイアント・パンダ」を一曲、またまた弾いちゃいましたよ~。このところ、この曲特に気に入ってますね~。パンダの動きを模したのんびりとした優しい曲で、オリエンタルな響きが癒されるぅ~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:。長時間に渡るアドバイスで、"どんより~"としてきた会場の空気が一変して和むこと×和むこと(*^ ・^)ノ。「びくびくしたり、怒ったり、慌てたりしないで、ピアノは心から余裕を持って弾こうね~」っていうメッセージを込めてね(笑)。それにしても、出先で出会う先生方のエネルギーはスゴイ。皆さん、猛烈に働いていらっしゃいますね。ギリギリまで自分の生徒を教えてから電車に飛び乗り、出張先のホテルには夜中にチェックイン。翌日、出先の仕事が終わればウロウロせずにトンボ帰りで、またレッスン( ̄□ ̄;)!!休みは正月と盆だけですと言い切る。スゴいな~!「忙しい」などとボヤいてはいけないとおっしゃいます。「忙しいのは当たり前じゃない!旬な先生じゃなきゃ声が掛からないのよ。」…だそうですから…。そう言われてしまうと→鮮度を下げないようにせいぜい頑張ります、とかしか言いようがないしな…(^o^;)。人間環境に慣れると愚痴が出る。仕事がなきゃないでグチグチ。忙しくなればなったでグチグチ&ブゥブゥ↓(|||_|||)。今後もチョロチョロ~っと遊びながら仕事します!まっ、それでもグチグチ~だけれどね(*^_^*)。あはは…。チョロチョロ遊んだ話しは→明日また(^O^)/。

鵜匠

20080602073245
世の中には、実に様々な仕事がある。観光客相手の屋形舟の船頭さんが「俺達とは違う」と言うのは、長良川の【鵜飼】を操る【鵜匠】のこと。尊敬の念を込めて【鵜匠さん】と丁寧に呼ぶ。正式には「宮内庁式部職鵜匠」というのが職名だそう。宮内庁に属しているのね~。それだけで何故か感心しちゃう(^o^;)。現在は6名の鵜匠さんがいらして、世襲で受け継がれるため、名字が杉山さん×4名に山下×2名と紛らわしいことになってますσ(^-^;)。そもそも鵜飼とは何かって?鵜を使った伝統的漁法。夜暗くなると鮎は動きを鈍らせてお休みタイムに入ります。鵜匠の焚くかがり火を頼りに、海鵜が鮎を漁ります。喉元を縛られている鵜は、くわえた鮎を飲み込めず口内に魚を貯めます。そこをすかさず鵜匠が舟に引き上げ、鵜を逆さまにして魚を吐き出させます。…という次第。かがり火はぼうぼうと焚かれ、数メートル先で見守る我々の頬を熱気が撫でるほどの勢いで燃え上がる。髪が焼けぬように烏帽子(えぼし)をかぶり、体が冷えぬようにと腰蓑を纏った鵜匠が、焚かれた火に照らされ闇の中に浮かび上がる様は幻想的でしたよ。そこだけタイムスリップ(^O^)/。クライマックスは【総がらみ】と呼ばれる漁法。6隻の舟が横に並び、鮎を浅瀬へと追い込んでいきます。「ほうほう」と声を掛け、舟べりを叩いて音を出し鮎を脅す。燃え盛るかがり火から飛び散る火の粉は、鮮やかなオレンジ色を放ちながら闇に消えていく。6艘が川面を滑る光景は迫力満点で、息を呑むことしばし。現在【鵜飼】に関わる人たちは、捕った鮎で生計を立てて暮らしている訳ではなく、伝統漁法として保護されているそうです。「お気をつけて」と屋形舟の船頭さんに見送られ、「どうですか?」と土産物屋のおばさんに誘われ、タクシーの運転手さんからは「今日は随分お客さんがいたね~」と話し掛けられ、ホテルのフロントでは「お帰りなさい」と声を掛けられ…。色々な仕事があります。皆、それぞれに必要とされているんですね~。

鵜飼

20080601065428
岐阜にピティナ・ピアノステップのアドバイスの仕事でやって来ました。新幹線で名古屋まで出て、東海道線に乗り継いで岐阜駅までは半時間と掛からない近距離。岐阜県に来たのは初めてです。さぁ~て、岐阜では何を観ようか?観光ガイドブックをめくってみる。世界遺産の【白川郷】は是非とも訪れてみたい。写真を見れば、三角の茅葺き屋根が畑の中に建ち並び、日本人の故郷だ~◎。そうは言っても岐阜から電車で高山駅まで2時間余り、そこからバスを乗り継いで更に2時間はゆうに掛かる。それは、秘境だっ(?_?)。昔は飲み水なんかにお金を払うなんて考えられなかったけれど、今じゃ水道水をそのまま飲むことに抵抗がある。きれいな水ブームの発端の地【郡上八幡】。長良川上流の町【郡上八幡】は水の郷として知られる。昔ながらの街並みと、歩道の脇に流れる水路や水場を愛でながら散策ができる。風流~◎。ただし郡上八幡は、岐阜から電車で2時間余り掛かる。そこから街の中心地までは、ちょいとバスに乗る。ついでに立ち寄るには、やはり遠い…(-o-;)。岐阜って広いな~。不便だなぁ~(Θ_Θ)。岐阜入りした昨日は、朝から雨が降って寒い一日でした。岐阜に入ったら雨が止んでいたので、せめて長良川の【鵜飼】でも見てみようと、タクシーに乗って案内してもらいました。夕暮れの長良川。屋形舟に乗船してみれば…家族連れとカップルのみで、一人旅のなんと寂しいこと(ノ_・。)。賑やかな皆さんの狭間で小さ~くなって【鵜飼】を観てました(^^ゞ。次第に薄暗くなるにつれ、屋形舟が次々と集まる様に胸踊り、かがり火に浮かぶ鵜匠の勇姿は幻想的で、なかなか圧巻でしたよ~◎。ところで【岐阜】って漢字で書けます?カレンダーに仕事の予定を書き込もうとしたら、情けないことにあやふやにしか書けず、今回の旅で覚えましたよ(´∀`)。
プロフィール

鈴木直美

Author:鈴木直美
ピアニスト、指導者として活動中。
Suzuki Piano School主催

最近の記事
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

リンク
ブログ内検索
RSSフィード
ブログカウンター